決起文    北村泰一



ごあいさつ     2002/7/29

 はじめに:
 このメイルシステムは坂幹事長が作ってくれました。使い方がわからず、先日、ちょっといじくっておりましたら、、アッという間に、何も書かない白紙が送信されてしまいました。みなさんは、その白紙を受信されて、何ごとかと不審に思われたことでしょう。お侘びいたします。
 さて、このたび、九州大学に『宇宙環境研究センター』なるものが完成しました。 何をするところかようわからんけれど、私たちに関連する分野が増えたことには間違いありません。 その開所式に、久留米から坂 翁介氏、東京から立原裕司氏、篠原学氏などが参加し、そのあと、研究室に残る田中良昌氏、魚住禎司氏(北村研最後の世代)も加わり、箱崎の一杯呑み屋で、昔ばなしに大いにもりあがりました。
 そこで、こんな会を毎年やろうとの提案がありました。 みなさん、ついでの時に都合がつけば参加ください。 会の名称は ○○ ですが、僕は、これは仮題とし、正式には、改めてこの仮題も含めて、あと数回の会合の中で、多くの人の意見により決定すればよいと思っています。
 先日の会合で、
  『よく考えてみると、我々の研究室(旧北村研)は一風変わった研究室であった。 各自の体験を、現在の若い世代に伝えよう』 ということが話題になりました。
 それで、この会の目的は、普通の同窓会の役割の他に、それぞれの時代に経験した武勇伝を話題とし、それを書き残すことにしたいと思います。
 そこで、モロモロのお世話を、
     坂   翁介 幹事長(現久留米高専副校長、全般のとりまとめ)
     吉川 顕正 副幹事長(現九大助手か講師。幹事長のヘルプ)
     立原 裕司 副幹事長(現宇宙事業団、関東方面のとりまとめ)
の三氏にお願いしたいと思います。 世はインターネットの時代ですから、直接 坂 幹事長に連絡されてもかまいませんが、電話の場合には、関東在住(宇宙事業団)の立原氏が便利かと考え、立原氏に副幹事長をお願いしました。
 最初は、2002年8月15日に開催します。坂幹事長が何人かの人に問い合わせましたが、今年のお盆には帰福しない人が多いようですので、8月15日は在福岡の者だけでも集まろうかということになりました。
 今後でも、都合のつくようになった人は、幹事長へ、8月10日までにお知らせください。現在20名程度がリストアップされているそうです。この数は、だんだん増えてゆくはずです。それぞれのアドレスや電話などは、そのうちに、リストが通知されるはずです。
(坂幹事長への連絡は、この伝言板を利用されても良いし、坂氏個人のアドレスは、近いうちにこの伝言板で公表されると思います)。

 当方の近況をお話ししましょう。
 1995年に定年退職しましたことはご存知でしょう。その前年1994年に、中国のココシリ地域(説明してもわからないでしょう。中国のおくのまた奥。人跡未踏地)の標高5000mの高原で、酸素欠乏のために人事不省となり、一旦は死にましたが、4日ほどのちに蘇生しました。6500mの未踏峰へ登るはずが、ダラシのないこととなりました。 ハ 時間が流れていることを、すっかり失念していました(30年前の33歳の時、5000m少しのアラスカの山を元気よく登りました。その時、20歳台の学生君は僕より元気がありませんでした)。
 ちょっと眠っていたつもりでしたが、4日間も眠りつづけていたようです。
 この時珍しい体験をしました。三途の川の岸辺まで行ったのですが、船頭さんに、今、もちあわせがないのであとで払うから、といいましたが、船頭さんは、『ダメ、ダメ、現金正貨だ・・・。この次おいで・・・』といって、相手になってくれませんでした。仕方なく、また、この世に戻ってきたような次第です。
 おなじように酸欠で人事不省に陥った中国青年2名(20歳と28歳)は、とうとう目を覚まさず、そのまま三途の川を渡ってしまいました。みなさんも、死ぬときには、財布をもたないほうが良いですよ。
 生命にあふれる20歳台の青年がそのまま目を覚まさず、63歳の自分が目を覚ましたことは、なんだか申し訳のないような気持ちでいますが、思いあたるのは、僕はモ脂肪がたっぷりモで、中国青年は、モがりがりに痩せていたモことです。 思うに仮死の4日間は、この脂肪を食べていたのだと思います。多分20kg以上も体重が減っていたろうと思います。その18日後に日本に帰ったときは、体重40kg台、九大病院を40日後に退院した時は62kg(禁じられていた、見舞いの果物などをコッソリ食べました)、現在は74kgです。中国青年は、こうした脂肪貯蓄がなかったからではないかと考えます。今でも体調をモニタ?してくれている九大のお医者さんにこのこと(脂肪があったから助かった)を話し、10kgくらいは脂肪をつけておいて、イザという時の貯蓄にするのが良いのではないかと。
 お医者さんは、言下に否定しました。
   『そんな、一生に一度あるかないかのことのために、残る長い期間を重い脂肪をつけて苦労することはない・・・』
 皆さん。やはり肥えるより、ぼどぼどに軽い方が良いようですよ。僕も努力しています。
 もう1つ思いました。キリストさんが復活した話。
 キリストさんは、死んで何日目かに蘇生しました。復活祭というのがある所以です。
 そこで、キリストさんが蘇生するためには、死んでいる間脂肪を食べ続けるわけですので、かなり肥えていなければなりません。しかしルーブルや、あちこちの美術館・博物館でみた、"キリストはりつけの図"では、キリストさんはかなり痩せています。一歩譲って、磔の時は、死んでいたのだから、脂肪はどんどんへり、あんなに痩せていたことを認めても、磔の前には、かなり肥満でなければなりません。
 ところが、"最後の晩餐"ほか、肥満体のキリストさんの像など見たことはありません。みな痩身のキリストです。画家が、そこまで想像力が働かなかったのだろうか。  みなさん、肥満体のキリストさんを見かけたら、どうぞ記憶にとどめておいてください。
 家族の近況を書きましょう
 初期の人は覚えているかも知れません。私が九大に赴任したのは1968年ころ(正確に覚えていない。1969かも)。それから30年以上になります。あのころ、小学生だった娘(タカネ)は、いま38歳で2人の母となり(だんなは日本人)、現在カリファオルニアに住んでいます。もう日本には帰らない、アメリカ人になるのだと、鼻息が荒いことです。 息子は35歳くらい、ハザマ(倒産しかけ)で、いま、息もたえだえに関西で暮らしています。
 みなさん、アトバイスしておきますが、男が威張れるのは金のせい。退職して、月給と無縁になると、もう男の神通力はなくなります。この時から、奥さんの"わが世の春"が始まります。 現に、半月ほど前から、僕は独身です。家内は8月の末まで、娘のところにゆきました。
 話しはもどりますが、日本に生還し、九大病院を退院した時には、声は全く出ませんでした。キーキー言っているのが自分でもわかりました。退院して4ケ月後に定年退職したので、調度よかった、勤務にはあまり差し支えませんでした。喋れないからと、予定されていた再勤務も辞退して、しばらく、じっとしていました。
 ところが、喋れないままにしているのは悪い。強制的にでも喋れ、といって、福岡工大の非常勤講義を世話してくれた人がいました。
 リハビリのために学生さんに犠牲を強いるのは悪いなあ、と思いましたが、『まあええわ。どうせぼくの講義など、誰もきいていないから・・・』と、講義をすることにしました。題して"地球外生命"。
 無理に声を出すことになって、はじめて理解したことがあります。  ・・・
 ああしんど。以下次号。今日はこれくらいにして、続きはこの次。


                 北村泰一



 最後に一言だけ。僕は京都生まれ。生まれた土地は理由なしに恋しいものです。自分も比叡山を見て死にたい、との思いがだんだん強くなりつつあります。
 幸い、京都に、まだ土地がある(この話は、いつか話したかもしれない)。 学生の頃、高島易ダンの八卦見が、僕に向かって "あなたは、将来大金に恵まれる"、と見立ててくれました。家内との結婚(見合い)の時、このことを話して、スムースにコトが運んだということがあります。ところが、僕はそんなことはすっかり忘れていたのに、最近、家内がそれを持ち出し、アレはまだ実現していない。いつ実現するのか、と迫ってきました。その時は、『まだ、勝負はついていない。あと15年ある・・・』と逃げましたが、あとで、この京都に土地が残っている(福岡にくるとき、全部売却してきたはず)のは、八卦見の予言のの1つかも知れないと気がつきました。
  (みなさん。くれぐれも 口 に注意。無責任なことを言っていると、あとで祟ります)  そんなわけで、具体的に決まっているわけではありませんが、いつか京都に移りたいと思っています。